土地は誰のものか


加賀120万石、伊達62万石という。

一石はひとりが一年間に食べる米の量に相当するから、これに年貢率をかけると、どれほどの戦闘員を養えるかが計算できる。

つまり石高は大名の財力だけでなく、保有する戦闘能力を誇示するものであった。

江戸時代の米生産高は全国で3,000万石、このうち幕府直轄領は800万石である。

現在の全国米生産高を石高に直すと6,000万石になるといわれる。

江戸時代の人口が3,500万人、現在が1億2,000万人であるから、6,000万石というと随分少なく感じるが、近年、米を食べる日本人が激減していることを考えれば、さほどに大変な事態ともいえない。

しかし長年米を主食としてきたわが日本人にとって、土地は誰のものだったかというのは興味あるテーマである。

翻ってみれば、大化の改新以来、土地も人民も国家の持ち物となったが、重税や労役のため長続きせず、奈良時代には貴族や寺社が土地を私有する(荘園)ようになった。

太閤検地

その後、鎌倉・室町時代になると、守護・地頭が台頭して荘園の支配権を奪い取ったが、戦国時代に入るとその守護をも潰してしまう戦国大名が登場し、最終的に頂点に立った豊臣秀吉の太閤検地で、荘園は消滅した。

それほどに、秀吉の太閤検地は画期的事件であった。彼は刀狩をして農民を武装解除(兵農分離)し、土地は耕すものだけに所有権があると言明した。逆に武装するものには土地を持たせず、権力を分散させることに成功した。

さらに農地の広さでなく、土地の善し悪しや収穫高を年貢取り立ての基準とし、生産力に応じて税を課した。経済観念の発達した秀吉一流の合理主義が窺い知れる。

彼の指示した税率は2公1民であり、収穫した3分の2が収奪されるという過酷なものであったため、しばしば各地で農民一揆を引き起こした。

しかし課税の対象はあくまで米のみで、ほかの作物は自由であったことや、戦いのたびに食物や労働力を強要されることがなくなり、農民の暮らしは比較的安定していたともいえる。

ただ農民出身の秀吉は、従順の衣をまとった農民の狡猾さを熟知していた。予想どおり彼らは課税を逃れようとひそかに隠田を隠し持ったが、秀吉は検地帳を作ってこれを阻止し、不正が見つかれば磔の刑に処してまで農民を統制した。

江戸時代になって、年貢徴収はその年ごとに収穫量を見込んで年貢率を決定していたが、江戸中期にいたり豊作・不作にかかわらず年貢率を一定にした。

ただ幕府は基準を決めなかったので、大名ごとに年貢率はまちまちであった。一般には4公6民や5公5民が多かった。4公6民では収穫の6割が、5公5民では半分が農民の取り分である。

額面どおりだと農民にとっては大変な負担であるが、年貢はその後も江戸初期の検地記録に基づいて決定したため、田畑の灌漑が進むにつれ農民が納める年貢は減り続け、さらに麦など米以外の作物は無税であったため、実質負担は2~3割に落ち着いたという。

しかしなかには途方もない年貢を要求された藩もある。年貢率は時期により変動したとはいえ、水戸藩や紀州藩では、8公2民という過酷な税率を記録した。

どちらも徳川親藩という家格上、冠婚葬祭などに多額の出費を要し、水戸藩では大日本史の編纂にかかる出費、紀州藩では参勤交代での出費に加え、山地が8割と耕作地が少ないため、年貢を上げざるを得なかったという。

これに対し、天領(幕府領)の農民は気楽であった。江戸時代の創成期には、土木、灌漑事業や城下町の整備に出費がかさんだが、せいぜい4公6民までであり、社会整備の落ち着いた将軍綱吉のころには、3公7民にまで軽減された。諸藩にくらべ幕府には莫大な鉱山収入があったことにもよる。

年貢は人口の85%を占める農民だけに課せられたもので、士農工商のうち「工商」すなわち商工業者(人口の6%)に対しては、運上金・冥加金が課せられた。

商業、工業、鉱業、漁業、運送業などを営むものに商売の特権を与える代わりに納める税金である。

しかしその税負担は農民に比べればはるかに軽いものであった。しかも税負担のあったのは、家屋敷を所有する富裕な商工業者(町人といわれる)で、裏長屋に住む庶民の多くは税金を免除されていた。

ところで、江戸時代を通じ土地は公儀のもの、また村全体のものとされ、農民が自由に土地の売買をすることはできなかった。大名ですら、領地も居城する城も自分のものではなく、たんに自分の領地の徴税権を持ったにすぎなかった。

それゆえ、家臣ごと他の藩へ移動するなどという国替(くにがえ)が平気でおこなわれたのである。

地租改正

明治維新になって、幕府の金庫が空であることを知った政府は、慌ただしく地租改正を実施した。なにしろ年貢の9割が米となれば、その輸送や保管は途方もないこととなる。

さらに米の価格も変動して定まらないため、大急ぎで全国の土地の値段を定めて所有者に地券を発行し、地価の3%を地租として現金で納めさせることにした。

土地の売買が自由化されるのはこれ以降である。

売買が自由になると、生活に困窮したものは土地を売り払い、大地主のもとで小作人となって生き延びることとなった。昭和に入っても地主の占有は増え続け、太平洋戦争前には全耕地のほぼ半数が小作地となった。

このため戦後、GHQの農地改革が断行され、多くの小作農が一夜にして自作農となり、現在に至っている。

さてその土地であるが、戦後50年、日本の会社は土地を担保に銀行から金を借り、工場や店舗を建てて収益を増やしたのち、さらに値上がりした土地を担保に店舗を建てて増益をはかるという危ない循環を繰り返してきた。

わが国の国土は狭いうえに平野が少ない。だから経済が上向けば土地の値段は必ず値上がりするという土地神話に基づき、銀行から低金利で借金しそれで土地を買い増す企業が続出した。

こうして土地の担保価値は上がり続け、異様な事態と不安のなかでバブルがはじけたのであった。土地を商品と勘違いして弄んだしっぺ返しというべきか。

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