士農工商の記憶


近年、明治という言葉を聞くことも少なくなったが、亡父はかろうじてその明治末年の生まれである。本人は格別それを誇りにしていた。

一方、母親は戦時下、女学校に勤務していたある日、喜々として帰宅した父親から、「結婚が決まったぞ」と告げられた。当時、父親の命令には逆えない空気が世に満ち満ちていたらしい。

目線を上げてはならぬと厳命され、形ばかりの見合いをして結婚した。したがって父と所帯をもつまで、母は亭主の顔がよくわからなかったという。

母方は生粋の農民である。女学校の教師が時代受けしたためか、医者との縁談がもちあがった。気位の高い父の母は不満であった。我が家は士族である。

よりによって農民の娘などといって反対したが、女っ気のなかった父が一目で母を気に入り、無理を通したようである。

明治男は気位が高い。日清・日露戦争を制し一等国になったのは、わが明治人の偉業によるものである。しかるに終戦後、日本男児は軟弱になったと、父はしばしば不機嫌であった。

潔癖漢で、戦後、闇米に手を出さず餓死した裁判官を悼み、息子に「正義」と命名した。およそ開業医らしからぬ横柄な診療であったから、評判はすこぶる悪く、母を嘆かせた。

家族に対しても君主のごとくで、人の意見はまるで聞かない。言いにくいことはすべて母に代弁させた。食事は寡黙に済ますのをよしとし、無駄口をたたくとじろりと睨みつけるという具合であった。

ちゃぶ台の上はいつも父の膳だけがお頭付きで、ほかはじつに簡素なもので、母にいたっては父の残り物を片付けるのが日課であった。戦後10年では、とても食料不足が解消されたとはいえず、芋粥の日々が続いた記憶がある。

夫婦のいさかいは、ほとんど父の身勝手が原因とおもうが、父の捨て台詞は繰り返し聞かされたから、子供心にも記憶に残った。

なにしろその口上がふるっている。

「無礼者め。百姓の分際で口答えをするな」。

昭和30年ころの記憶である。

父は士族をたてに空威張りを続け、65で早死にした。母は農民を代表してこれに耐え、父の死後1年だけは、この世も終わりとばかりに泣いて過ごしたが、その後はケロリと忘れ96の長命を得て、今夏、大往生した。

認知症があったとはいえ、この10年、母の口から父のはなしは一度も出ることはなかった。

亭主がいたことすら覚えているのかと疑うほどである。

これでは夫婦の絆などと勿体ぶっても、もはやうたかたのごとしである。

たとえあの世で再会できたにせよ、いきなり母も馴れ馴れしく近づくわけにはいくまい。

65で死んだ父も100歳を迎えんとする変わり果てた女房を見て、絶句するのではないか?

同じ墓に納めたのはいいが、果たしてどうなることか。

あの世でも士農工商のバトルは再開されるのであろうか。

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