侠(きょう)について


戦後、小中学の道徳の時間で、仁、義、礼、忠、孝についての訓話をうけ、家庭でも、事あるごとに親は子に、これを説いて聞かせた。

そのなかに「侠」のはなしはない。

長じて、やくざ映画が勢いを増した時代には、不義理、破廉恥などに対するアンチテーゼとして任侠が取り上げられ、侠にたいする興味が喚起されたが、それとて束の間の感傷に終わった感がある。

我が国はかつて仏像伝来とともに、仏教で庶民を飼いならそうとしたが、奈良平安を通じ、さほどに浸透しなかった。

鎌倉時代に、自前の仏教が法然、親鸞、日蓮、栄西、道元らによってつくられ、やっと庶民にも浸透し始めたといえる。

武士層はおもに禅宗を、農民地主層には浄土真宗が、町人層には法華宗(日蓮宗)が主として浸透した。

禅宗は解脱をめざし、真宗も日蓮宗も仏に救いを求めるもので、もともと仏教には、他人をどうしようという要素はなかった。

また、武士道のモラルの根っこは主君への忠義であって、死を賭して主君を守るというものである。徹底した主従関係に根付いている。

強きをくじき弱気を助ける

一方、「」は強きをくじき弱きを助ける勇気である。主従関係はない。

ただ儒教の勇と違い、仲間、友人を決死の覚悟で守るというものである。武士道と異なり横の関係を重視する。

江戸時代まで、わが国に、友という横の関係を重視するモラルはなかったから、「侠」に関する美談はあまり残っていない。国民的関心事ではなかった。

一方、中国には春秋時代以来、漢の劉邦はじめ三国志の勇者など、古来、数多くの侠客(きょうかく)が登場する。

司馬遷によれば、「侠客は、言ったことは必ず実行し、引き受けたことは身を挺してやり遂げ、他人の苦難のために奔走する。生と死の境を渡った後でも、おごらず、自慢することを恥とする、魅力ある者たちである。」という。

侠客と呼ばれた地域の相談役

歴史上、わが国に侠客なる職業は認められず、江戸時代における風俗の一つとして存在したといえる。

たとえば、徳川幕府の初期、江戸市中の道路、河川、住宅の土地開発が急ピッチで進んだ。

しかし、幕府には事業を遂行するだけの人力も管理能力もない。そこで、その地域に住む相談役といわれる顔役に労務管理を任せたのである。

彼らは幕府の依頼を意気に感じ、報酬を度外視して、これに努めた。ただ無頼の徒としての一面も有していた。

彼らの奇妙な服装、こわもての言動はひとびとの耳目を集め、侠客と呼ばれたものの、庶民の評価は分かれた。

その後、喧嘩賭博で渡世し,親分・子分の関係で結ばれた遊び人を侠客と呼んだが、これは中国の侠客とは全く異なり、社会的評価は低い。

侠と衆道

我が国で「侠」が唯一、評価の対象となったことがある。

戦国時代から江戸時代に生まれた衆道である。単に同性愛として性の処理的な意味合いとか、出世の近道という打算が指摘される反面、純粋な友情、義兄弟という強いきずながみられたことも事実である。

この場合、主君を裏切ってでも友をとるという反体制的行為が周囲を驚かせたが、わが国で友情が大きく取り上げられた稀なケースであろう。

今日、人生なにより得難きものは友であると、折に触れ見聞するが、なんのことはない。「友情は尊い」と声を大に言い始めたのはつい最近、明治維新でヨーロッパ文明が流入してからのことである。

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