モンゴル軍のこと

Kanenori/ Pixabay

少年のころ、毎日馬に乗って生活している遊牧民の子供を、羨ましく思った記憶がある。学校にも行かなくていいし、宿題もない。

毎日馬に乗って草原を走り回り、羊の群れに青々とした草を食べさせながら、その中から夜の食卓にのぼる羊を選ぶというのであるから、食物には不自由しない。

大草原は見渡すかぎり、自分の住処である。毎日羊たちと移動しながら、たどり着いたところにテント(パオ)を建てて寝る。

なんという自由だろう。こんな魅力的な国があるというのに、がんじがらめの中で、生きていかねばならない身の不幸を呪った。

彼ら遊牧民の目には、僅かばかりの土地にしがみつき、その土をはがすように苗を植えて生活している中国人が、滑稽にも哀れにも見えたに違いない。

その後長じて、遊牧民の匈奴が大国・秦、漢を悩ませたことを知って、不審に思った。なんといっても秦、漢は中国全土を制覇した武力政権である。

それをたかが少数の放牧民が襲ってきたところで、なにほどのことができようかと思ったのである。

ところが、史書を見ると意外な事実が分かった。匈奴討伐に出かけた漢の高祖は匈奴の領袖・冒頓単于に返り討ちに会い、以後、匈奴へ貢物を欠かさない低姿勢を採らざるを得なくなったという。

よくよく調べれば、軍隊の数はとるに足りないが、匈奴の戦闘能力は尋常でない。

まず騎馬技術である。両手を離して弓を射かけるには、両足だけで馬上のからだを支える技術を持っていなければならない。

さらに的を射るには、馬の振動が静止した瞬間に弓を放つ技術が必要である。子供のころから乗馬に慣れ親しんでいなければ、この技術は身につかない。

このような騎馬技術をもたない漢の軍隊は、独活の大木のごとく鈍重で、匈奴のスピードに翻弄され、一敗地にまみれたのであった。

惜しむらくは、彼らが文字を持たなかったことで、匈奴内部の声はまったく後世に伝わっていない。彼らの歴史はすべて敵対する国によって伝えられることとなった。

匈奴が滅んだのは内紛による自滅ということになっているが、その痛快な物語が埋もれてしまったのは残念至極である。

ところで、匈奴に騎馬技術を伝えたのは、紀元前6~4世紀ころ、ロシア南部の草原にいたスキタイである。

彼らはイラン系遊牧民族で、ギリシアやイランの文化を吸収し、独自の騎馬文化をもって、ウクライナの草原に強力な王国を確立した。はじめてズボンなるものを創造したのも彼らである。

スキタイ文化は黒海、カスピ海の北側を通り、アルタイ山麓、モンゴル高原を経て中国に至る「草原の道」を通して、匈奴に伝わった。さらにこの騎馬文化は鮮卑、柔然(5~6世紀)、突厥(6~8世紀)、ウイグル(8~9世紀)、契丹(10世紀)、そしてモンゴル帝国(13世紀)へと着実に伝わった。

そのモンゴルについてである。13世紀に入りチンギス・ハーンによりモンゴル高原を本拠地とし、ユーラシア大陸に広がる歴史上最大の帝国を樹立した。なんと当時の世界人口の約半数を支配下におさめたといわれる。

いったいモンゴル帝国の強さの秘密はどこにあったのか。

まずは彼らが遊牧民であったことである。すなわち、誰もが子供のころから乗馬に慣れ、筋力を鍛え、毎日戦闘訓練をしている軍事国家である。

したがって馬にまたがって騎射を行う能力は、他の追随を許さないレベルにあった。その実力は、かつての匈奴に勝るとも劣るものではない。

それと同時に、中国やイスラムから投石器や鉄砲の技術を積極的にとり入れ、さかんに戦闘に用いた。
彼らは多くの部族に分かれていたが、1000人の兵士を一つの遊牧集団として責任者を決め、1個の戦闘集団にして起居をともにした。それをさらに百人隊、十人隊に細分化し、それぞれの隊長に絶対権力を与えるかわり、上の隊長には絶対服従を強いた。

このため、複数の部族集団は分解されて、モンゴルという戦闘集団に造りかえられ、戦闘で軍団の一部が崩壊しても、すぐに体制を立て直す仕組みができていた。

また、彼らは戦略、戦術に長けていた。つまりまず諜報活動により、相手の国内事情を詳しく調べ上げたうえで、「降伏するか皆殺しか」という恫喝、降伏や中立を勧める調略、謀略の限りをつくし、戦力を使わず勝利をものにするのに長けていた。

つまり戦いを仕掛けるにあたっては、まず降伏勧告をし、抵抗した都市には無慈悲なまでに住居破壊と住民虐殺を履行した。また、抵抗後の降伏は一切認めず、他の都市への見せしめとした。

そして制圧したあと次の地へ移動する際は、住民を一人残らず殺害して去るという残忍非道ぶりであった。

逆にすなおに降伏した都市には、モンゴルへの臣従を誓わせ、ほどほどの税金を課すほか過度の強制は一切しないという温情をみせた。

モンゴル軍の特筆すべき軍事力は、いったん戦闘の火ぶたが切られると、兵士全員が騎馬兵に変身するという凄さにあり、高速で射程距離の長い複合弓を騎射して、敵を完膚なきまでに殲滅した。

しかも急な行軍には、ひとりの兵士が3~8頭の馬を並走させながら、頻回に乗り換え、一日50~100キロを走破した。騎兵は替え馬の乳を飲みながら、疲弊した馬を殺しては食料にした。

その意表を突く急襲に相手は防御が追い付かず、手も足も出ぬまま壊滅に至ったという。

モンゴル軍は兵士全員に、常に羊の干し肉とチーズをもって非常事態に備えさせた。しかし大遠征には、家族が馬、ラクダなど家畜を連れて同行した。

この場合、軍団は先鋒隊、中軍、後方隊の三部隊に分けられ、先鋒隊は敵軍の殲滅に全力を挙げ、中軍は相手の拠点を制圧したのち、回収した戦利品を、先鋒隊として働いた千人隊に優先的に分配した。

後方隊は兵士の家族など非戦闘員が主で、後方に待機して家畜を処分し、軍隊への食料補給を担当した。

このようなモンゴル帝国の異様な膨張は、徹底した略奪と殺戮によってのみ可能であったといえる。

しかし一方で、13世紀のユーラシア大陸は東洋から西洋にまで秩序が保たれることになり、陸路、海路とも広範な交易ネットワークが形成され、人々の往来が盛んとなった。

強大な権力者による帝国はその人の死でもって、瓦解の方向へ向かうのが世の常である。

予想通りモンゴル帝国でも、世代交代にあたって支配権抗争がおこり、さらにペストの大流行と天災が相次いで政権は弱体化した。

したがって、モンゴル帝国そのものは17世紀まで細々と命脈を保ったが、中国に築いた元王朝は、わずか100年たらずで歴史の表舞台から姿を消すこととなった。

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