洛陽のこと

bartwrite/ Pixabay

9秒98

4年前、高校生だった桐生選手が100㍍を10秒19で走ったニュースは、驚きをもって迎えられた。近い将来9秒台で走る最初の日本人になるだろうと、多くのものが予想した。それだけに今回の9秒98は、本人にも我々にも待ちわびた朗報といえるだろう。

50年前、高校陸上部にいた自分の目からみると、恐るべき記録という印象が強い。クラスメートに10秒9で走る韋駄天(四国チャンピオン)がおり、手に負えないという速さだったから、この記録の凄さを肌身で感じたのである。

一方では、競走馬は200㍍を11秒で駆け抜けるのだから、人間の記録なんてその程度でしかないという話しも聞くが、2本足と4本足を一緒にした議論には与しない。

それより、桐生選手のニュースを見ていて、彼が洛南高校の出身だったのに気が付いた。洛南というのだから当然京都の南にあるのだろうが、昔から洛北、洛中、洛外、上洛など、「洛」は京都人の中でごく当たり前に使われてきた。

長安と洛陽

さて閑話休題、古来中国王朝は中原と呼ばれる黄河中下流域を中心に発展してきた。つまり、軍事、政治を担当する西の長安と、華北平原の経済をになう東の洛陽がこの地で花開き、1対になって首都機能を担っていたといえる。中原とは天下の中心を意味し、中原を制圧するものが中国を支配すると信じられてきたのである。

すなわち、戦国時代を制した隋の大運河建設により、洛陽は江南の集積地として繁栄し、その経済力が長安の軍事、政治を支える形となった。その結果、古代王朝は西の長安、東の洛陽の両都が長きにわたって首都に選ばれることが多かった。世に名高い倭の奴国王が後漢の光武帝から印綬を賜ったのも、この洛陽城であった。

このため、長安を模してつくられたわが国の平安京では、西側の右京を長安城、東側の左京を洛陽城と称した。

その後右京が荒廃し、繁栄する左京(洛陽城)が平安京を総称するようになったため、「洛」や「京洛」は京都の別称としての地位を得た。

単に「上洛」といえば、京に入るというほどの意であるが、これが信長の上洛となると、それだけではすまされない。無力化した室町将軍の後ろ盾を装って京に入り、朝廷の認可を取り付けたうえで将軍を操り、自らが権力を掌握しようとする魂胆があらわである。

さて長安と洛陽のその後である。

唐王朝の滅亡

唐王朝の滅亡とともに、江南の生産力を華北に移送する集積地は東の開封に移動し、宋朝では開封が首都に取って代った。

さらに次の元王朝になると、江南の富は南京に集まるようになり、首都となった北京の政治機能をささえることとなった。

このため、長安、洛陽はともに一地方都市に格下げされ、次第に衰退の道をたどった。さらに明に入ると、長安は西安と呼称されるようになった。

しかし太平洋戦争後、新中国の誕生によって息を吹き返し、西安は陝西省の首都として、洛陽は河南省の大工業都市(鉱山機械,紡織)として活躍するようになった。

ところで西安は西京とも呼ばれ、北京、南京と並び称されるが、これはいずれも洛陽からみた方角により、命名されたものである。洛陽が天下の中心・中原にあったことによる。

ちなみに東京は日本の都・京都からみて東にあるため、この命名となった。

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