サッカーと私

姉が結婚すると聞いたとき、相手が会社員としか知らされなかったし、24,5なら結婚するのは当然だろうという程度の記憶しか残っていない。45年ごろのことで、当時、自分は呑気な大学生だった。

結婚式に出て、義兄が日本代表のサッカー選手で、しかもそのキャプテンだということを知った。義兄の地元の新聞社やテレビ局の社長が列席しているのを見て、大したもんだと思ったが、サッカーには興味がなかったので、結婚式が終わるとそれっきりとなった。

次に会ったのは、正月の三が日で、自分が郷里に帰っているとき、夫婦でご機嫌伺にやってきた。そのとき、義兄がサッカー選手だったのを、こちらはすっかり忘れていたのだが、義兄は何事もないような涼しい顔をしていた。

自分のほうから話しかけることはなく、聞かれれば答えるという具合で、卓上の話題にあわせて談笑するのが常であった。無口な父はそれを大いに気に入っていたらしい。

ただ、姉夫婦がデパートに出かけた折、義兄が買う段になって、店員に高すぎるから値引きせよと言ってきかないので、恥ずかしかったという愚痴を聞いた。それ以来、自分は義兄のことを只者でないと、尊敬するようになった。世間知らずという前に、容易に信念を曲げない人という印象を抱いたからだと思う。

かばん持ちとなる

それっきり、サッカーとは縁がなかったが、昭和53年の秋、O教授のかばん持ちで3日間スイスを訪れた。といっても、ストックホルムの学会に出席したあと、日本に帰る途中、スイスに寄ったわけで、難物といわれる教授を自分に押し付けて、同行の仲間10人はパリで羽を伸ばしている。

しかし自分はなにもみずから犠牲者になったというのではない。要するに、どちらでもよかったのだ。そう言ったら、仲間からぜひかばん持ちを引き受けてくれないかと、せがまれたというわけだ。

どういうわけか、その頃の自分は20も年上のO教授と不思議に馬が合うと、ひそかに思っていた。

妙な関係

卑近な話だが、食い物の趣味が合う。たまたま一緒に昼飯を食うことがあった。自分はメニュ-を一瞥して、お先にカキフライ定食を頼んだのだが、教授はメニュ―の前で四苦八苦しておられる。さんざん悩んだ挙句に何を言い出すのかとおもったら、君は一体なにを注文したんだねというから答えると、じゃあ僕もそれにしようということになった。

このパターンが何度かつづいたのち、我々は食友達になったというわけだ。

また、自分は学生時代フルートをやっていたのだが、仲間に洗脳されて不得意なクラシック音楽に接する機会を無理矢理与えられていた。そのおかげで、一家言持つまでに鍛えられたのである。

バイオリンを得意とするO教授は、いやしくも医学者なれば学問ができるのは当たり前という考えの人で、人の評価を医学以外の才能に置いておられた。

ノー天気な自分は、会食の際、酒の勢いで、ハイフェッツの技法は完璧だがどこか無機的で、芳醇な味を醸し出すオイストラッフに心惹かれると、大見えを切ってしまった。

これが教授から予想外の評価を受け、以後自分は教授と学問を離れた途端、こそばゆいような関係となった。

スイス漫遊の旅へ

話があらぬ方へ向かっているので、ここでもとに戻すと、O教授はスイスの友人の案内でレマン湖などを周遊するという。ひとりで行けばいいようなものだが、向うがふたりだから、数合わせしないと具合が悪いので、君も来たまえということになった。どこか判然としない。

スイス人はふたりとも英語、フランス語、イタリア語に通じている。悲しいかな、自分は学校で英語を話す訓練を受けてないから、からきしである。

4人はジュネーブで落ちあい、ベンツに乗って、レマン湖の湖畔をすべるように進んで行く。初秋の日差しに湖畔の木々は多彩に色付き、日陰ではその緑を湖面に溶け込ませ、一幅の絵を醸し出している。自分の郷里では見られない風景である。

とはいっても、似たり寄ったりの景色がつづくので、どのへんを走っているのかまったく分からない。車内の4人のうち教授を含む3人は英語で会話に花が咲くが、自分はかやのそとである。多分、通じたとしても、内容が専門的で、ついていけないことに変わりはない。

夕暮れ時にマッターホルン近くのツエルマットに投宿した。

食事になると、自分も少しばかり会話に入ることができた。教授が間に入って通訳してくれたせいもある。相手が年配で最初は遠慮がちだったが、ワインを飲むとすっかり安心して友達感覚となり、英語も少しうまくなった気がした。4人のうち一人無口なのがいると、座が白けてしまうから、なんとか体面を保てたかと安堵した。

こうして2時間ほど盛り上がったところで、教授がお開きにしようといった。そういえば教授は下戸で、素面(しらふ)だったことに気が付いた。どこか面白くなさそうでもある。

本来はかばん持ちが気を利かせて、そろそろお開きというべき場面だろうが、酩酊していたせいですっかり忘れていた。

スイスでサッカーを観る

部屋に帰ってテレビをつけたら、サッカーの中継をしている。いったいどこが面白いのかねぇと呟きながら、チャンネルを回してみたが、ことごとくサッカーである。しかたがないから、義兄に義理立てして、しばしサッカー観戦と決め込んだ。

なんでもヨーロッパチャンピオンを決める大事な試合だという。しかし何時になっても点が入らない。妙な国だなとおもいながら、眠気を催したので早めに床に入った。

翌朝、教授の顔色を窺ったが、まるで気にしてないふうだったので、こちらもそれなりに平静を装った。昨日と変わらず、ベンツの後部座席に教授と並んで座った。今日はマッターホルンへ行くらしい。

緊張がほぐれ、スイス人と少しばかり会話できるようになったので、こんな風光明媚なところで外からの侵略もなく、一生呑気に過ごせられるのは羨ましいと、思ったままを口にしてしまった。

すると、運転していたスイス人が顔を赤くして反論し始めた。早口なので、もう一度言ってくれと何度も繰り返すうち、やっと聞き取れるほどになった。

スイス人、憤慨す

あなたは我が国をもっとも安全な国家と考えておられるようだが、とんでもない。

永世中立国というのは、他国に攻め入ることは決してしませんと宣言したようなもので、だからといって他国が攻めてこない保障はないのです。日本のように沖縄に米軍がいるわけでないから、誰かが侵略する気になれば簡単に占領される危険があるのです。

助手席のスイス人は、自分のほうを振り返ってあきれ顔である。その彼がつづけて言うには、我が国は国民皆兵で徴兵制があります。いつだって家には自動小銃が置かれ、いざというときに備えています。この世に軍隊がなくて平和な国などありませんよ。

永世中立国と言っておけば、安全が保障されると思っていた私は、すっかり驚いて、言葉を失った。

そこで、助けを求めようと横を向いて、教授は知ってましたか?と言いかけたが、彼は居眠りを決め込んで話に乗ってこない。なるほど君子危うきに近寄らずかと、合点した。

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