無意識のなかで

最近あおり運転のニュースが話題になることが多い。

実にたわいない理由で、かっとなってあおり行動に出ているのを見ると、潤いのない乾燥した世相のためか、もともと堪忍袋の緒とはその程度なのかと考え込んでしまう。

 

考え事をしながら運転していると、前を見ているようで、じつは見ていない。無意識のうちに前の車に接近してしまい、はっと我に返りブレーキを踏むことがある。

考えてみれば、前の車は異常接近する自分の車を脅威に感じ、あおられたと思ったのではないか。

 

危険を感じた相手が通報すれば、自分はいきなり、あおりの犯人にさせられる危機にあったことになる。

思いかけず、冤罪について考え込んでしまった。

 

 

そういえば、われわれは毎日通い慣れた道を運転するのに、次はどこを曲がってなど、いちいち考えなくても、無意識のうちに目的地にたどり着く。何の不思議もない。

 頭は常に働いているといって安心している向きもあるが、じつは無意識で動いている部分が意外に多いのに気づく。

若いころ、酩酊してなにも覚えてないのに、なぜか自宅にたどりついた経験がある。

完全に意識がないなら出来ぬ相談であるから、無意識といっても浅い層、深い層に分ければ、浅い層は酔っぱらって駄目になっても、深いところの無意識が何とか自分を自宅に連れ帰ってくれたらしい。

 

 

自分は内視鏡検査というやや込み入った仕事を40年ほど続けているが、日々同じ作業の繰り返しなので、今では頭はすっかり休んでいて、手だけが勝手に動いているという具合になっている。

 それは没頭しているからだ、などと結構なことをいう人もいるが、それはちょっと違う。

どちらかというと、酩酊した時の感覚に近いように思う。ここではどうも無意識が幅を利かしているようだ。

親交ある職人さんも同じことを言っていたから、慣れてくるとひとは皆こんな具合になるのかもしれない。

 

 

日頃、通っているスポーツジムで汗を流した後、ロッカーで着替えしていると、わざわざ隣に来て脱衣する人がいる。まわりに空いたロッカーはいくらもあるのに、窮屈なこと極まりない。

一度ならず繰り返すため不審におもっていると、相手は全く無意識に自分の決めたロッカーを利用しているのが分かった。

無意識は大いに人を惑わせ、誤解を生む。

 

 

無意識といえば、子供の無意識はしばしばひとを傷つける。

 一昔前のことだが、車で通勤のついでに、子供たちを何度か保育園へ連れて行ったことがある。

保育園の入り口で子供を降ろすと、大勢の保母さんが待機するなか、一斉に美人の保母さんめがけて駆けだしている。無意識に選んでいるのである。

あらかじめ教えたわけではないに、生来、子供は美醜を判断できるらしい。

選ばれたほうはいいが、そうでない側はなんと傷つくことか。

我が子の非情をまのあたりにして、子供の無意識は切れ味鋭い刃だと、つくづく思ったことである。

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